ザ・ドリフターズ(The Drifters)は、日本のミュージシャン、後にコントグループである。略称「ドリフ」。1970年代から1980年代中頃をピークに、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活躍。現在もCM出演等で活動している。
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1 概要
1.1 所属事務所
1.2 メンバー構成
1.3 芸名の由来
1.4 ミュージシャンとしてのドリフ
1.5 コメディアンとしてのドリフ
2 メンバー
2.1 加藤茶
2.2 高木ブー
2.3 仲本工事
2.4 志村けん
3 元・新生ドリフメンバー
3.1 いかりや長介
3.2 荒井注
3.3 すわしんじ
4 ドリフターズ前期バンド時代のメンバー
5 関係者
6 ドリフの歴史
6.1 前期バンド時代
6.2 新生ドリフ時代
7 TV出演
7.1 主な出演番組
7.2 最近のCM
7.3 補足
8 シングル・レコード
8.1 その他
8.2 CD
9 書籍
10 主演映画作品
11 関連項目
12 外部リンク
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[編集] 概要
一般的には、いかりや長介が正式リーダーになった1964年のドリフ再結成以降(新生ドリフ)が知られているが、結成は1957年(1955年または1956年の異説あり)。
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結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは音楽バンドとして活動していた。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。
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いかりやが正式リーダーに就任した2年後の1966年にはビートルズ日本公演の前座を務め、僅か40秒の演奏時間ではあったが、前座用のステージが別に作られていたにもかかわらず、ドリフターズだけはビートルズと同じステージで演奏した。これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。
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コント55号(萩本欽一・坂上二郎)、三波伸介、笑福亭仁鶴、桂三枝、横山やすし・西川きよしと共に1970年代から1980年代にかけて日本のお笑いをリードしてきたエンターテイナーである。
当たりギャグは「8時だョ!全員集合」の欄を参照。
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[編集] 所属事務所
いかりや長介がリーダーに就任した当時は渡辺プロダクションに所属。1979年より渡辺プロダクションより分社した「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。
過去に所属していたレコード会社は東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)で、デビュー当初より在籍していた。また、「ドリフの早口ことば」及びドリフメンバーが歌唱に参加していない『全員集合』使用曲「『ヒゲ』のテーマ」「ドリフのわんダードッグ」は、渡辺プロの関連企業だったサウンズ・マーケッティング・システムから発売された。
[編集] メンバー構成
前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかったが、新生ドリフになってからはメンバーはほぼ固定され、5人の構成が取られるようになった。初期のメンバーには、現在、催眠カウンセラーの吉田かずおが在籍していた。ただし、荒井注の脱退宣言の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書にも記述されているように、すわしんじ(現・すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なす解釈もある。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることは無い。さらには、人形ながらもジャンボマックスがメンバー扱いされる記事も見受けられる。いかりや没後には新メンバーを加入させる予定は無く、現在4人の構成となっている。
いかりやの著書によれば、いかりやは自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続することを計画していた。
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[編集] 芸名の由来
新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格に当たる「クレージーキャッツ」のリーダー、ハナ肇だった。ドリフのメンバーにしてみると、ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたようだったが、逆にインパクトがあり、今でも各人の名が覚えられる結果となった。なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた(各人の芸名の由来は各人の項参照)。
[編集] ミュージシャンとしてのドリフ
前期バンド時代はともかく、新生ドリフはカバー曲や替え歌が主体のため、コミック・ソングとしては、「クレージーキャッツ」より低く見られがちだが、初期の多くの曲を手がけた川口真のアレンジは、独自の「ドリフサウンド」を作り上げた。また、1970年の「第12回日本レコード大賞大衆賞」を受賞し、同年「ドリフのズンドコ節」で「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞している。彼らの「ズンドコ節」は、1969年11月1日発売、オリコン最高位2位、売り上げ枚数115万枚以上という、時代を考えるととてつもない大ヒットを記録。他にも、数十万枚のシングルヒット、または10位以内にランクインした曲は4-5はある。その1970年には、他の民放などでもいくつかの賞を受賞をする。
後述の通り、新生ドリフになった後は、グループの活動はお笑いが中心となったため、音楽とは程遠い存在になったが、音楽活動はメンバー各個人のみで継続されており、全く音楽活動を休止してしまったわけではなかった。これは、高木ブーが日本屈指のウクレレ奏者であることや、加藤茶がドラマーの実力を度々番組内で披露していることからもわかることである。また最近では、加藤、仲本、高木が『こぶ茶バンド』を結成する形でバンド活動を再開している。
2001年12月31日の『第52回NHK紅白歌合戦』にて、ドリフは正式な出場歌手として初出場を果たした(メンバーが応援に来た事は過去にも度々あった)。同年8月に放送された、『第33回思い出のメロディー』に出演したことがきっかけで選出となったが、往年のヒットメドレーは大好評を得た。だが、いかりや長介亡き今日、ドリフにとってはこれが現時点で歌手として最初で最後の紅白出場となる見通しである。
[編集] コメディアンとしてのドリフ
元々ドリフは純粋なバンドであり、お笑いとは程遠い存在だったが、桜井輝夫がリーダーになってからは、コミックの要素を音楽に取り入れるようになった。当時のドリフターズは出演の最初はメンバーが各ポジションでワンフレーズ演奏をして、いかりやの「全員集合」の一声で全員が舞台前面に出てきてコントを始めていた。これが後の彼らのキャッチフレーズとして使われる「全員集合」の由来である。コントの中身もそれぞれの楽器を使った音楽がらみの物が多かった。そして新生ドリフになった後からは、グループの活動はお笑いが中心となっていった。
70年代になると「クレイジーキャッツ」に取って代わる形でドリフターズが人気になった。これは、クレイジーキャッツと同様、「歌」や「コント」等、何でも出来たためである。
お笑いとしては、グループを生かした色々なパターンを生み出す。特に『ドリフ大爆笑』の「もしもシリーズ」では、ボケと突っ込み以外の「呆然とするいかりや」で笑いを取るという新しいパターンを生んだ。いかりや自身は、自らのグループを「お笑いの能力は一流でない」と卑下し、新生ドリフ初期のライバルであるコント55号に対抗する意味で、アドリブ無しの徹底的に練られたストーリー作り、練習でカバーし、土曜8時戦争と呼ばれるお笑い番組の視聴率争いで、長年にわたって優位を保った。
志村が正式メンバーになる前後でチームの笑いのパターンは変化している。ドリフ再結成直後は高木ブーを中心にした笑いだったが、すぐに加藤茶を中心としたコントに変更され、のっぽ(権力者役のいかりや)、でぶ(無芸大食の高木)、めがね(風見鶏、インテリ役の仲本工事)、はげ(ふてぶてしいおじさん役の荒井)、ちび(いじめられ役の加藤)という、吹き溜まりの集団内での人間関係というチームワークで、加藤がオチを取っていた。それと同時に「いかりやから加藤を中心として4人共にいじめられながらも表向きは従い、機会を見ては権力者であるいかりやに前述のキャラクターを生かしたそれぞれの方法で時には共謀して歯向かい、形勢がいかりやに戻るとその4人がそれぞれの個性をもった方法でばらばらになり、要領の悪いメンバー(加藤)だけがバレて犠牲になる」といった社会的な縮図を指摘する者もいる。時折、加藤といかりやとの権力争いの結果、リーダーの座が逆転したり始めから加藤がリーダーとなるパターンもあった。また、音楽の要素を残し、笑いに取り入れている時代でもあった。
後期は、まともでない役のメンバー(特に志村)に、いかりやが突っ込みを入れたり、振り回されるという笑いのパターンだった。イントロの高木、つかみの仲本、オチの加藤、さらに加藤のオチよりパワーアップした奇天烈な行為をする志村という各々の順番でいかりやが突っ込みを入れていった。しかし、荒井の脱退から志村への交代で定着するまでには2年近くもの時間がかかった。それまでの荒井の人気の高さと同時に、志村を前面に押し出すまでの他のメンバー、特にいかりやと加藤の力量とキャリアによるサポートによるものであり、この頃には3枚目としての仲本も強調されてきた。一方で志村はいかりやの演出を無視してアドリブでギャグを入れる事がしばしば見受けられた。リハーサルでダメ出しをされても、生放送のドサクサに実行してしまうこともあった。これは、「緻密なストーリーと演出に基づいたドリフコント」を若干ながら崩すこととなる。
撮影用ではあるがケーキや鶏卵、牛乳などといった食べ物を粗末にするネタ、下品なコントが多く、また「金たらい落しや一斗缶で殴るなど、子供が真似ると危ない」などという名目の内容も含めてPTAの目の仇にされたが、メンバー以外の他人の誹謗中傷をネタにすることはなく、かつ素人いじりをしなかった。また、トーク中心のギャグは、たとえ優秀な通訳がいたとしても日本人以外には受けないが、ドリフは体を張ったギャグや音楽ネタが中心であるため、老若男女を問わず日本人以外からの受けも良い。いかりやの著書によれば、いかりやが米兵相手にコミックバンドをしていた体験からこのような芸風を後々まで引き継ぐことになったという。日本だけでなく、台湾等でも彼等は人気がある。
「8時だョ!全員集合」、「ドリフ大爆笑」、テレビ朝日「ドリフと女優の爆笑劇場」等の番組にゲスト出演した一流俳優、一流女優、アイドル歌手、演歌歌手までが、番組内では本来のイメージを越えた役作りやギャグをすることをバーチャルなお笑いドラマやコント出演としてファンからも許されたばかりか、ドリフと一緒にコントをやりたいために自ら希望して演じる者も多数出てきた。そういったゲストからお笑いとしての個性を引き出され、新たな方向性や個性をも作っていった者も少なくない。また、実際に主に立ち回りながら喋って笑いを引き出すのはメンバーであっても、ゲストが笑いの中心であるように見せる企画力や技術もあり、まさにドリフに対する信頼の高さをうかがわせた。
[編集] メンバー
[編集] 加藤茶
詳細は加藤茶を参照
(1943年3月1日 - 、本名加藤英文、かとう ひでゆき)
1962年メンバー入り。1964年のドリフ再結成当初では最年少だった。いかりや没後、現行ドリフでは最も古いメンバー。ドラムとボケ担当。
志村が東村山音頭でブレークするまではメンバー内の一番人気であり、いかりやのギャグの落ちの期待を一身にかけられていた。その期間ドリフを引っ張っていき、メジャーに押し上げた功労者でもある。グループ内ではいかりやとぶつかることもあったが、メンバーの人間関係の調整役の役割を果たしていた。加藤はいかりやの弔辞を読んだ。
1964年、後述するドリフ内部のクーデターの際、小野ヤスシ等と共にドリフを抜ける予定だった。
荒井が脱退宣言をするまでが絶頂期であり、当時国民的人気者だったが、本人は限界を感じていた。
志村がブレークした後は志村の後手にまわることが多かったが、それは本人が疲れと限界を感じていたため自ら志村のサポートに回った結果である。実際、「志村がいて助かった」と公言している。